GMPの歴史(第三回)

天然痘 ― 「人類最大の敵」との戦い

天然痘は、歴史上もっとも人類を苦しめた感染症のひとつとして刻まれています。

古代から近代に至るまで、時代も大陸も超えて、数億の命を奪い続けてきました。

発症すれば高熱と発疹、死亡率は50%、そして生き延びても顔や全身に瘢痕が残り、視力障害・知能障害さえありました。生き残ったとしても生涯の苦痛を背負うことになりました。

天然痘は、単なる病気ではなく、人類の文化・政治・経済・戦争の行方すら左右した「見えない侵略者」でした。

古代の影

天然痘が歴史の舞台に登場した正確な時期は不明ですが、その影は紀元前からすでに人々の生活に忍び寄っていました。

紀元前3世紀のエジプトのミイラには、天然痘特有の痕跡が確認されています。

そして紀元前1000年頃のインドでは、すでに天然痘の免疫を得るための人痘法が実践されていました。患者の膿を乾燥させ、弱毒化してから健康な者の皮膚に擦り込み、軽度の発症を狙う――当時としては高度で大胆な方法でした。

この技術はやがて中国へ渡り、宋代には宮廷でも実施されるようになります。南宋の記録には、天然痘から子供を守るために人痘接種を行ったという記述が残っています。

その後、オスマン帝国を経由して18世紀前半にヨーロッパへと伝わりました。

海を渡った「見えない侵略者」

15世紀末、大航海時代の到来とともに、天然痘は新たな大陸へと渡ります。

特にアメリカ大陸への伝播は壊滅的な影響を与えました。免疫を持たない先住民社会において、天然痘は一気に広がり、多くの共同体を崩壊させます。

アステカ帝国では、スペインの侵略軍が到来した翌年、天然痘が首都テノチティトランを襲い、人口の半数以上が命を落としたと記録されています。軍事力だけでなく、この「見えない侵略者」こそが征服の行方を決定づけたのです。

日本を揺るがせた流行

日本でも天然痘は古くから猛威を振るいました。最古の記録は6世紀後半、仏教公伝の頃にまでさかのぼります。

8世紀には奈良時代の天然痘流行で、人口の3割近くが失われたと推計されます。特に735~737年の大流行では、政権中枢である藤原四兄弟が相次いで死亡し、政治の空白が生じました。これが国政の混乱を招き、律令国家の運営に長期的な影響を残したとされます。

江戸時代にも周期的に流行は繰り返され、子どもにとっては避けがたい通過儀礼のように恐れられました。「疱瘡神」の名で畏れられ、赤色を好むとされる神をなだめるために赤い布や玩具を贈る風習まで生まれています。

宮廷を襲う「見えない侵略者」

天然痘は庶民だけでなく、王宮や宮廷にも容赦なく入り込みました。

フランス国王ルイ15世は天然痘で命を落とし、その死は七年戦争終結直後という微妙な国際関係の最中に訪れました。若くして王位を継いだルイ16世の治世は混乱を抱えたまま始まり、やがてフランス革命へと至る歴史の流れの一因ともなります。

ロシアでも1730年、18歳の皇帝ピョートル2世が天然痘で急逝しました。結婚式を目前に控えた悲劇で、後継者を残さなかったため帝位は空席に。権力は一時的に貴族評議会(最高枢密院)へ集中します。彼らは専制君主の再来を警戒し、新皇帝を自らの管理下に置こうと画策しました。選ばれたのは遠縁のクールラント公国のアンナ。即位は条件付きで承認され、彼女は最初から完全な専制権を持たず、ロシアは派閥争いが渦巻く時代へと突入します。

命を賭けた予防策 ― 人痘法の光と影

天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていました。

紀元前から続く人痘法は18世紀前半、イギリスやアメリカにも広まり、多くの命を救いました。しかしその方法は、患者の膿を利用して実際に天然痘に感染させるため、期待通り軽症で済む場合もあれば、重症化して命を落とす場合もありました。統計では接種者の約2%が死亡しており、命を賭けた選択だったのです。

それでも人々は、この危険な方法にすがるほかなかったのです。

そして、一人の男が現れる

そんな中、この危険で不完全な予防法に代わる、より安全で確実な方法を求める動きが強まっていきます。

18世紀末、イングランドの田園地帯に、その後の医学史を塗り替えることになる人物が現れます。 エドワード・ジェンナー――彼の物語は、やがて天然痘を「門外不出の秘術」から人類共通の資産へと変えていく、大きな転換点となるのです。

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