GMPの歴史第四回-ジェンナーと「牛痘」の発見

ある伝承

18世紀末、イギリスの田園地帯。若き医師エドワード・ジェンナーは、搾乳婦たちの間に広まっていた言葉に耳を傾けました。

「牛痘にかかった女は、天然痘にはかからない」。

単なる噂と片づけられていたこの伝承を、ジェンナーは医師としての観察眼で捉え直したのです。

伝承を実証へ

1796年5月14日、ジェンナーは世界を変える一歩を踏み出しました

当時8歳の少年ジェームズ・フィップスの腕に、牛痘に感染した女性から採取した膿を慎重に接種したのです。数日後、少年は発熱や倦怠感を示しましたが、症状は軽く、まもなく回復しました。

その数週間後、ジェンナーはさらに決定的な検証に挑みました。今度は天然痘患者から採取した膿を同じ少年に接種したのです。人々がもっとも恐れる病に、少年の身体はさらされた――しかし驚くべきことに、彼は発症することなく健康なままでした。

ここに、人類史上初めて「牛痘を用いた種痘」が実証されました。単なる伝承が、医学的実知見へと変わった瞬間です。

王立学会の拒絶と社会の反発

しかし、ジェンナーの報告はすぐには受け入れられませんでした。王立学会に提出した論文は拒絶され、自らの費用で小冊子を出版せざるを得ませんでした。

それはおそらく当時の社会常識とモラルも壁だったのでしょう。
「他の動物の病の膿が人を救うなど馬鹿げている」
「人間に動物の病を移すなど不道徳だ」
という批判は根強かったのです。

当時の人々は「人間の身体の純潔性」や“種”の境界に強いこだわりを持っていました。牛の病を人間に接種する発想は、そのタブーに真正面から挑む行為でもあったのです。

静かな逆転劇、そして扉は開く

それでもジェンナーは諦めませんでした。自費出版の小冊子はやがて各国の医師や思想家に読まれ、支持者を増やしていきます。ナポレオンは自軍の兵士に種痘を命じ、イギリス議会はついにジェンナーに報酬を与えるに至りました。

初めは冷遇され嘲笑された医師が、最終的に「種痘の父」と呼ばれ、社会から正当に報われる――それは、歴史に残る静かで確かな逆転の瞬間でした。

しかしこの逆転は、恐るべき怪物が潜む門を開けたのです。

この開いた門こそGMPを生み出す原動力となっていくのです。

これは次回(第五回)でお話をしたいと思います。

ジェンナーはその扉の先に何があるのかまでは知らなかったのです。彼は知らなかった。悪意を持った人がいることを。 人の身体に影響を与える物質が、同時に毒にもなることを。 彼は純粋な善意から門を開いたのです。──怪物の眠る扉を。


付記:天然痘の根絶

日本への伝来と普及

ジェンナーの種痘法は、やがてオランダを経由して極東の日本へも伝わります。幕末期、長崎で学んだ二宮敬作や緒方洪庵らが普及に尽力し、洪庵の適塾からは多数の医師が輩出されました。彼らによって西洋医学とともに種痘は全国へ広まり、江戸末期から明治にかけて国家的制度として根づいていきました。

天然痘に苦しんできた日本の社会にとって、それは近代化と同時に訪れた大きな救済でもありました。

世界規模の根絶運動

20世紀に入っても天然痘はなお猛威を振るっていましたが、1940年代以降、ワクチンの大量生産と世界的な接種キャンペーンが展開されました。

1967年、WHOは「天然痘根絶計画」を本格始動。徹底した接種と封じ込め戦略が功を奏し、1977年、ソマリアでの最後の自然感染例を確認。1980年、世界保健総会は天然痘の根絶を正式に宣言しました。

結び ― 最大の敵を乗り越えて

人類史において、天然痘は単なる病気以上の存在でした。文明を揺るがし、戦争の帰趨を左右し、社会を形づくった「見えない侵略者」。
その脅威を克服できたのは、ジェンナーの観察と実験、そしてそれを受け入れ広めていった人々の努力の積み重ねにほかなりません。

いま、天然痘は地球上から消えました。しかしその歴史は、人命を賭した試みから始まったまた忘れてはならない事実でしょう。

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