【セミナー開催】初歩から始めるGMP/GQP文書の書き方と管理方法
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日時:2025年11月12日(水)
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18世紀末、イギリスの田園地帯。若き医師エドワード・ジェンナーは、搾乳婦たちの間に広まっていた言葉に耳を傾けました。
「牛痘にかかった女は、天然痘にはかからない」。
単なる噂と片づけられていたこの伝承を、ジェンナーは医師としての観察眼で捉え直したのです。
1796年5月14日、ジェンナーは世界を変える一歩を踏み出しました
当時8歳の少年ジェームズ・フィップスの腕に、牛痘に感染した女性から採取した膿を慎重に接種したのです。数日後、少年は発熱や倦怠感を示しましたが、症状は軽く、まもなく回復しました。
その数週間後、ジェンナーはさらに決定的な検証に挑みました。今度は天然痘患者から採取した膿を同じ少年に接種したのです。人々がもっとも恐れる病に、少年の身体はさらされた――しかし驚くべきことに、彼は発症することなく健康なままでした。
ここに、人類史上初めて「牛痘を用いた種痘」が実証されました。単なる伝承が、医学的実知見へと変わった瞬間です。
しかし、ジェンナーの報告はすぐには受け入れられませんでした。王立学会に提出した論文は拒絶され、自らの費用で小冊子を出版せざるを得ませんでした。
それはおそらく当時の社会常識とモラルも壁だったのでしょう。
「他の動物の病の膿が人を救うなど馬鹿げている」
「人間に動物の病を移すなど不道徳だ」
という批判は根強かったのです。
当時の人々は「人間の身体の純潔性」や“種”の境界に強いこだわりを持っていました。牛の病を人間に接種する発想は、そのタブーに真正面から挑む行為でもあったのです。
それでもジェンナーは諦めませんでした。自費出版の小冊子はやがて各国の医師や思想家に読まれ、支持者を増やしていきます。ナポレオンは自軍の兵士に種痘を命じ、イギリス議会はついにジェンナーに報酬を与えるに至りました。
初めは冷遇され嘲笑された医師が、最終的に「種痘の父」と呼ばれ、社会から正当に報われる――それは、歴史に残る静かで確かな逆転の瞬間でした。
しかしこの逆転は、恐るべき怪物が潜む門を開けたのです。
この開いた門こそGMPを生み出す原動力となっていくのです。
これは次回(第五回)でお話をしたいと思います。
ジェンナーはその扉の先に何があるのかまでは知らなかったのです。彼は知らなかった。悪意を持った人がいることを。 人の身体に影響を与える物質が、同時に毒にもなることを。 彼は純粋な善意から門を開いたのです。──怪物の眠る扉を。
ジェンナーの種痘法は、やがてオランダを経由して極東の日本へも伝わります。幕末期、長崎で学んだ二宮敬作や緒方洪庵らが普及に尽力し、洪庵の適塾からは多数の医師が輩出されました。彼らによって西洋医学とともに種痘は全国へ広まり、江戸末期から明治にかけて国家的制度として根づいていきました。
天然痘に苦しんできた日本の社会にとって、それは近代化と同時に訪れた大きな救済でもありました。
20世紀に入っても天然痘はなお猛威を振るっていましたが、1940年代以降、ワクチンの大量生産と世界的な接種キャンペーンが展開されました。
1967年、WHOは「天然痘根絶計画」を本格始動。徹底した接種と封じ込め戦略が功を奏し、1977年、ソマリアでの最後の自然感染例を確認。1980年、世界保健総会は天然痘の根絶を正式に宣言しました。
人類史において、天然痘は単なる病気以上の存在でした。文明を揺るがし、戦争の帰趨を左右し、社会を形づくった「見えない侵略者」。
その脅威を克服できたのは、ジェンナーの観察と実験、そしてそれを受け入れ広めていった人々の努力の積み重ねにほかなりません。
いま、天然痘は地球上から消えました。しかしその歴史は、人命を賭した試みから始まったまた忘れてはならない事実でしょう。
天然痘は、歴史上もっとも人類を苦しめた感染症のひとつとして刻まれています。
古代から近代に至るまで、時代も大陸も超えて、数億の命を奪い続けてきました。
発症すれば高熱と発疹、死亡率は50%、そして生き延びても顔や全身に瘢痕が残り、視力障害・知能障害さえありました。生き残ったとしても生涯の苦痛を背負うことになりました。
天然痘は、単なる病気ではなく、人類の文化・政治・経済・戦争の行方すら左右した「見えない侵略者」でした。
天然痘が歴史の舞台に登場した正確な時期は不明ですが、その影は紀元前からすでに人々の生活に忍び寄っていました。
紀元前3世紀のエジプトのミイラには、天然痘特有の痕跡が確認されています。
そして紀元前1000年頃のインドでは、すでに天然痘の免疫を得るための人痘法が実践されていました。患者の膿を乾燥させ、弱毒化してから健康な者の皮膚に擦り込み、軽度の発症を狙う――当時としては高度で大胆な方法でした。
この技術はやがて中国へ渡り、宋代には宮廷でも実施されるようになります。南宋の記録には、天然痘から子供を守るために人痘接種を行ったという記述が残っています。
その後、オスマン帝国を経由して18世紀前半にヨーロッパへと伝わりました。
15世紀末、大航海時代の到来とともに、天然痘は新たな大陸へと渡ります。
特にアメリカ大陸への伝播は壊滅的な影響を与えました。免疫を持たない先住民社会において、天然痘は一気に広がり、多くの共同体を崩壊させます。
アステカ帝国では、スペインの侵略軍が到来した翌年、天然痘が首都テノチティトランを襲い、人口の半数以上が命を落としたと記録されています。軍事力だけでなく、この「見えない侵略者」こそが征服の行方を決定づけたのです。
日本でも天然痘は古くから猛威を振るいました。最古の記録は6世紀後半、仏教公伝の頃にまでさかのぼります。
8世紀には奈良時代の天然痘流行で、人口の3割近くが失われたと推計されます。特に735~737年の大流行では、政権中枢である藤原四兄弟が相次いで死亡し、政治の空白が生じました。これが国政の混乱を招き、律令国家の運営に長期的な影響を残したとされます。
江戸時代にも周期的に流行は繰り返され、子どもにとっては避けがたい通過儀礼のように恐れられました。「疱瘡神」の名で畏れられ、赤色を好むとされる神をなだめるために赤い布や玩具を贈る風習まで生まれています。
天然痘は庶民だけでなく、王宮や宮廷にも容赦なく入り込みました。
フランス国王ルイ15世は天然痘で命を落とし、その死は七年戦争終結直後という微妙な国際関係の最中に訪れました。若くして王位を継いだルイ16世の治世は混乱を抱えたまま始まり、やがてフランス革命へと至る歴史の流れの一因ともなります。
ロシアでも1730年、18歳の皇帝ピョートル2世が天然痘で急逝しました。結婚式を目前に控えた悲劇で、後継者を残さなかったため帝位は空席に。権力は一時的に貴族評議会(最高枢密院)へ集中します。彼らは専制君主の再来を警戒し、新皇帝を自らの管理下に置こうと画策しました。選ばれたのは遠縁のクールラント公国のアンナ。即位は条件付きで承認され、彼女は最初から完全な専制権を持たず、ロシアは派閥争いが渦巻く時代へと突入します。
天然痘が強い免疫性を持つことは、近代医学の成立以前から経験的に知られていました。
紀元前から続く人痘法は18世紀前半、イギリスやアメリカにも広まり、多くの命を救いました。しかしその方法は、患者の膿を利用して実際に天然痘に感染させるため、期待通り軽症で済む場合もあれば、重症化して命を落とす場合もありました。統計では接種者の約2%が死亡しており、命を賭けた選択だったのです。
それでも人々は、この危険な方法にすがるほかなかったのです。
そんな中、この危険で不完全な予防法に代わる、より安全で確実な方法を求める動きが強まっていきます。
18世紀末、イングランドの田園地帯に、その後の医学史を塗り替えることになる人物が現れます。 エドワード・ジェンナー――彼の物語は、やがて天然痘を「門外不出の秘術」から人類共通の資産へと変えていく、大きな転換点となるのです。
薬──それは、もともと人類の共通財産ではありませんでした。
古代において、薬の知識は宗教と呪術と偶然に彩られ、厳重に囲い込まれていました。
たとえば、紀元前2000年頃のメソポタミアでは、粘土板に処方や調合法が刻まれ、神殿や祭司がそれを管理していました。また古代エジプトの「エーベルス・パピルス」には、ケシのチンキ剤で夜泣きの子を鎮めたという記述が残っています。
しかし、一族や祭司、修道士といった限られた人々だけが口伝で継承しました。
薬は「門外不出」の──社会から隔絶された知の体系だったのです。
しかし、そでも閉ざされた知識の時代にも、人の体に影響を与えるものすなわち「薬」を「規制」という考えが現れます。
それは単なる権力の気まぐれではありません。
薬は、神秘的であると同時に、危険きわまりないものでもあったからです。
古代の薬は、薬効と毒の境界があいまいでした。
ケシの乳液も、キョウチクトウの葉も、量を誤れば命を奪います。
そのため支配者や都市国家は、自らの身と秩序を守るために、薬の製造や販売を制限しました。
古代エジプトやギリシャでは、宮廷医や祭司が薬を独占し、処方は門外不出とされました。
また当時であっても偽薬や詐欺も後を絶ちませんでした。
それどころか不老不死を謳うなど、現代よりもより程度の激しい偽薬が存在しました。
効能を偽った薬や、成分を詐称した粗悪品は、人々の命だけでなく社会的な信頼をも蝕みます。
古代ローマではこうした行為を取り締まるために、市場監督官が薬価や品質を監視しました。
例えばローマ皇帝ディオクレティアヌスは、西暦301年の物価令で薬の価格上限を定めています。
これは単なる経済政策ではなく、命を扱う品を市場任せにしないという意思表示でした。
宗教的・政治的権威もまた、薬の規制を生みました。
薬は神の力を借りる儀式の一部であり、その使用は支配階層の特権でした。
中世ヨーロッパでは薬種商ギルドが、イスラム世界ではハキーム(医師)が、特定の薬や製法を扱える唯一の集団として制度化されます。
その資格は血統や長い修行を経た者だけに与えられ、外部者は排除されました。
こうした規制は、表向きは安全と秩序のためでしたが、同時に「薬の知」を限られた者だけのものとして囲い込む仕組みでもありました。
薬は救いの手であると同時に、権力の象徴だったのです。
しかしこれらの規制の背景には決定的に不足しているものがありました。
科学的な根拠です。科学的な根拠――21世紀の皆さんなら、「どの様な化学物質であっても過剰摂取すれば必ず体に害をなす」という事は当然の知識でしょう。
しかし人類がその考えに到達するには、16世紀の医師パラケルスス(1493–1541)の登場を待たねばなりませんでした。
彼の有名な言葉、「すべての物質は毒であり、毒でないものは存在しない。用量こそが毒と薬を分ける」は、近代毒性学の原点です。
もっとも、この原則が世界中で常識となるには時間がかかり、17世紀以降、イアトロケミー(化学医学)を通じて徐々に浸透していきました。
こうして「薬を安全に使うための科学的視点」は確立されましたが、これはあくまで治療の安全化を目指すものでした。
18世紀末、この流れに全く新しい方向性をもたらす人物が現れます。
天然痘予防接種を生み出したエドワード・ジェンナーです。
彼の試みは、薬や治療法の規制だけではなく、「予防」という新たな概念を世界に広めました。
医薬品規制の歴史は、決して過去の遺物ではありません。
パラケルススの「用量依存」の原則も、ジェンナーの「予防」の発想も、現代の品質保証・GMPの根幹に息づいています。
歴史を知れば、なぜ今の規制や品質保証があるのかが見え、その理解は未来の品質保証を変える力になるでしょう。
私たちは、規制の起源から最新の国際ガイドラインまでを踏まえ、なぜこのような規制があるのかを共に考え成長する事を目指しております。
本内容は、製薬・医療関係者向けに講義形式でもご提供可能です。
「GMPの起源と本質」を体系的に学びたい方は、お問い合わせページからご連絡ください。
一緒に“信頼を育てるための仕組み”について、考えてみませんか?
▶ GMPの歴史 第3回:「天然痘-人類最大の敵との闘い」編はこちら
毎週土曜の夜に投稿します。
| 年代 | 地域 | 内容 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 紀元前2100年頃 | 古代メソポタミア | ハンムラビ法典に医療行為や報酬・罰則を規定(医師の過失への罰金・身体刑) | Wikipedia「ハンムラビ法典」 |
| 紀元前1550年頃 | 古代エジプト | 『エーベルス・パピルス』に薬物処方と医療規則の記録(王室管理下) | Wikipedia「エーベルス・パピルス」 |
| 紀元前4世紀頃 | 古代ギリシャ | 医師は市民に認可され、薬草・処方が市の規則で管理 | Wikipedia「古代ギリシャ医学」 |
| 紀元前1世紀〜西暦3世紀 | 古代ローマ | 市場監督官による薬価監視、粗悪品販売の取り締まり | Wikipedia「古代ローマ」 |
| 西暦301年 | 古代ローマ | ディオクレティアヌス帝の物価令で薬価の上限設定 | Wikipedia「ローマ帝国の経済」 |
| 9〜13世紀 | イスラム世界 | 病院制度とハキーム資格制、薬局(アプテカ)の許可制 | Wikipedia「イスラム医学」 |
| 13〜16世紀 | ヨーロッパ諸都市 | 薬種商ギルドによる独占的販売と製造基準、免許制 | Wikipedia「薬種商」 |
| 1540年 | イングランド | 王立薬剤師ギルド設立(薬剤師と薬局の規制) | Wikipedia「Worshipful Society of Apothecaries」 |
| 1617年 | イングランド | 王立薬剤師協会に独占的販売権を付与 | 同上 |
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現代の製薬規制の礎となる「GMP(Good Manufacturing Practice)」は、18世紀末の天然痘ワクチンの登場から
はじまりは、エドワード・ジェンナーが牛痘を用いて天然痘を予防できると示した1796年。
この驚くべき発見は「ワクチン」という概念を世に生み出しました。
天然痘ワクチンは、当時の死の恐怖を克服する唯一の「希望」となり、多くの人々が接種を望みました。
ところが、それに目をつけたのは、治療者だけではありませんでした。
粗悪なワクチンや偽造ワクチン、無効な液体を「薬」として売り出す者も現れたのです。
「薬」という言葉が人々の信仰や希望と直結していたからこそ、その期待を裏切る行為は社会に深刻な混乱をもたらしました。
かつて「薬」は、限られた人間しか扱えない特殊な技能でした。
それが産業革命を経て、解熱鎮痛剤や抗生物質の登場とともに“万人のためのもの”となり「見かけからは成分がわからない」と気が付いた人が現れて以来人は薬を「信じるだけ」では済まされなくなったのです。
薬が特権から大衆へと広がったとき、必要になったのは「信頼」でした。
それは国にゆだねられ、人が人を欺くことを防ぐために、薬を「つくる側」を縛る法律が生まれました。
それがGMPという「信頼の枠組み」の始まりです。
それは決して、製薬企業の自由を奪うものではありません。
社会に対する「信頼の約束」を、制度として明文化したものです。
本連載では、この「信頼の枠組み」がいかにして形づくられてきたか――
人類と薬の歴史の中で、GMPという考え方がどのように芽生え、制度として根付いていったのかをたどっていきます。
本内容は、製薬・医療関係者向けに講義形式でもご提供可能です。
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